2021年3月15日月曜日

知っていますか? 塚原等氏

山梨最初の支援学校設立  


 山梨県庁舎南別館の2階に「山梨近代人物館」があります。紹介されている人物50人の中には、昭和町から杉浦健造氏が選定されています(杉浦醫院HPもみじだよりブログ7月紹介)。

 実はもう一人、昭和町から選ばれている人物が塚原等氏です。

現在の県立盲学校・ろう学校の前身、私立山梨訓盲院の初代校長になった人です。山梨訓盲院は、大正8年、甲府の盲按摩業者たちによる熱心な運動が実を結び、甲府市旧百石町のキリスト協会に開校された私立学校で、その中心となったのが塚原等氏でした。校則の第一条、目的の第一条には「本校は視覚や発達障害の子どもに普通科目の知識と専門的な技術を教育して自立の道を支援することを目的とする」と書かれています。

山梨県の障がい者教育のパイオニアといって良いでしょう

 

昭和村西条4319番地に安政3年(1856)1月13日に生まれ、大正11年(1922)12月に亡くなっています。内藤伝右衛門の「甲府新聞」に入社し、その後も数々の新聞に携わった新聞人であるとともに、「三菊」の雅号を持つ歌人としても活躍した人物です

 等氏の息子さんの塚原薫氏も山梨県立ろう学校の校長を務めた方で、昭和22年4月から23年8月まで昭和町の村長も務めています。

  ※詳しくは杉浦醫院HP「四方山話360・361」をご覧ください

百石町にできた学校
現在、近代人物館で「郷土山梨の文化の発展に貢献した人々」と題して、小林一三、根津嘉一郎、内藤伝右衛門らとともに、塚原等氏も取り上げられています。

採藻逸誌(さいそういっし)」(明治12年刊行した詩歌集で塚原が編集)などが展示してあります。

あと2週間あまりで終了しますので、是非ご覧ください。

 

 

 

2021年3月1日月曜日

「鼓動」と「中央線」

 「鼓動」という短歌の文芸雑誌があります。

「2021.NO,12春」の号に、その会員の鮎川栄さんが、「竹林のシンフォニー」というエッセイを寄せ、杉浦醫院の日本庭園の様子、特に池の周辺に植えてある竹林の成長の様子を素敵な文章で紹介してくれています。全文を載せたい所ですが、紙面の都合で一部抜粋します。

・・・池の周辺の竹林には、直径10センチから20センチほどの竹が、5、60本植えられ、手入れもよいので、筍が成長する様子を間地かで観察できる。・・・・・・硬い地面を割り、モグラがひょっこり顔を出すように、筍は先端のヒラヒラとした葉に水滴をつけて現れ、日毎、ぐんぐんと成長し、1週間もすると1メートルくらいになる。その筍に朝日が背後から当たると、まるで輝くマントをまとった騎士のように、繊毛についた水滴がキラキラと輝き、その様子は赤や緑の光がシンフォニーを奏でているように見えるほどである。

 それから、2週間もすると、筍は5、6メートルに成長し、それまで身を包んでいた皮は、根を守る数枚を残して、下から順番に削がれてゆくのであるが、皮を脱いだ青竹の幹の清しさは、元服を済ませた若武者のようにも見える。」

光景が目に浮かび、流石と思わせる名文です。最後は『「毎日の生活の中でも、細やかな不思議を発見する楽しみと「トキメキ」を持つことを、この竹林の「筍」は、教えてくれたように思う』と文章を閉じています。

実は、鮎川さんは杉浦醫院のすぐ近くにお住まいで、杉浦醫院の庭園は散歩コースだと聞いています。エッセイの最後には本醫院の紹介もしていただいています。ありがとうございます!

 

 話題は変わり、杉浦醫院には、木喰上人・微笑仏の研究家として有名な丸山太一氏の蔵書を集めた「地平文庫」がありますが、その丸山氏が度々執筆していた「中央線」という総合文芸誌(発行人・大村智、編集人・蔦木雅清)があります。昭和30年代前半にはすでに発行されていたという老舗の文芸誌です。

その「2020年、第77号」に、遠藤文子さんが「杉山なか-少女編-」として、杉山なかの人生(地方病に罹り自ら解剖を申し出た農婦)を小説で書いています。読み応えがある内容ですので、是非お読みいただければと思っています。(「中央線」は本館にもあります)

実は、この遠藤さんは「もみじだより10月(杉浦醫院HPのブログ)」で紹介した地方病の先駆的な授業実践をした遠藤美樹先生の奥様です。夫婦揃って地方病に関心を持たれているとはビックリです!


 

  

竹の再活用

こんにちは。杉浦醫院です。 杉浦醫院の庭園は年間を通して、鈴木造園に植栽管理して貰います。 2月に降った雪で、杉浦醫院の竹林の竹が1本根元から、雪の重みで折れました。 鈴木造園さんに、竹の処分をお願いしたところ… 処分ではなく、再利用!!! 私の考えの浅はかさにお恥ずかしいかぎり...